昭和52年07月04日 朝の御理解



 御理解 第10節
 「神が社へ入っては、この世が闇になる。」

 金光教でいう神様、天地金乃神様という方は、社の中にただじっと静まってござるという神様ではない。いわゆる天地を一目に見てござる神様であり、天地を自由になさる神様。それでまあいろんな理屈をつけますね。ある先生が金光教の神様は、お社をこう開いたら、向こうは青空が見えるような仕組みにしたがよいと、これはもう随分前の話ですけども。それを本気で教団の呼びかけられた先生があった。ね、お扉がこうお扉をこうして開ける。そすと向こうには青空が見えておるという。
 そういう神様じゃなかにゃいけないというわけです。けれどもねこの天地の親神様がですよね、いうならばあのお社の中にご神璽をお祭りして、奉祭してそして上から鍵をかけるようにして、あの金具がかかっておりますが。だからもう俺りゃもう窮屈でもうこげんとこに押し込まなできんと言う様な、神様ではないと言う事が分からにゃいけんですよね。うん。この辺の所へいろんな、まあ理屈がつくわけです。
 最近ではもうこの奉祭様式が全然変わって新しい教会なんかは、親教会三井教会がそうですが、いわゆる天地書附だけで、いわゆるご神璽というものがない。まあそれはどちらに致しましても、なら天地の親神様がお社の中にご神璽を納めて、そして上からこう金具をかけたからというて、もう出きんなさらんと言う様な神様ではないと言う事なんです。だからそう言う事は、どうでもよいのです問題じゃないのである。
 問題は私共人間には、矢張り一つの感覚というものがありますから、ね、矢張り神々しいまでに、又はにぎやかに又は、すがすしゅうまあとにかく「ご神前」と、こう申しますから神前に縋ったら、思わず襟を正させる思わず頭が下がる、そういう工夫はいると思うですね。ご神燈が明々というなら皆さんのお家では、あぁまだお榊をお供えなさるでしょうが、そのお榊のそれこそ榊葉の生き生きと青々として。ね、そこにお御簾があり几帳がかかっておる。
 もう前を通っただけでも拝まなければおられない、と言う様なこれは私は、人間は誰しも感覚がありますから、ね。ほんとに天地の親神様をお祭りするという、そういう意味での工夫はいるんじゃないかと思いますね。今は教団でもその奉祭様式がまだ、長年問題になっておりますけども、これという決め手がない。今度ご本部がご造営新築になられてから、天地書附を芯にして拝む事になったから、まあそれに倣っていっとるですけれども、ご本部の場合なんかは、あれだけの素晴らしい御建築ですからね。
 けれどもそお小さいまあ教会なんかで、天地書附だけがポツンとかけてあって、もう何かこうひとっつもこう頭が下がる様な気がせん、柏手を打つ様な気持ちが起こらない。そんな感じがするですから、もっともっと是には工夫が要す、要する事であり工夫がなされなければならないと思いますね。だからどうであっても、良いものは矢張り残しとかなきゃならない、良いものは取り入れなければならない。まっそういう過程にある金光教だと言う事、言う事で御座います。
 私は今日「神が社に入ってはこの世が闇になる」と言う事は、人間氏子が神様の働きそのものを小さくして行く、いうならば押し込んで行く様な働き。そういう例え、神様の働きの邪魔になる様な事が、段々起きてきておるのではないかと、私は思うです。ね。言うならば極端にいうなら、神様をないがしろにしておる様な事はないかと言う事です。だから神様が段々遠のいて行って、おかげというものが段々頂き難くなってくる。ね。例えば霊験というかね、いうならば奇跡的なおかげだとは申しますか。
 ほんとにそういう例えば働きを、ね、狭めていくそれをないがしろにしていく。愈々神様の働き場が無くなってくる。神様の働き場が無くなると言う事は、そのままこうやって、ね、陰のほうへ神様を押しやって行く様なものではなかろうかとこう。私共の今親子で修行しております池田先生、所の今度のまあいうなら、まっ災難と言や災難、おかげだと言えばおかげ。(  ?  )のように、親子で教師の資格を取りまして、もう何日ぐらいなりましょうかね、もう20日にもなりますかね。
 どの位なるでしょうか。(Aが答える)あ(Aが答える)とにかくまあ、あ(Aが答える)だから何日になるの(Bが「明後日で1ヵ月だそうです」と答える)おうもう1ヵ月になるわけですか。もうほんとにまあいうなら、大変な怪我でございますよね。しかもそのあのそうめんを湯がくために、グラグラたぎっているお湯じゃったっち。それば大きな鍋にそうめん湯がくとですから、それを持って例の病気が起こったもんですから、もうほんとにもうあっという間の出来事でしたけれどもね。
 もうそれこそ体半分以上、こういわば大火傷をした訳です。ね。すぐにお届けに私も夕食の時でした、(  ?  )と。( ? )言うてきましたから、あのうすぐあのお神酒で拭いて、そしてご神米をいっぱい張って、置けと言うてまあ申しました事でしたけれど。おかげでもう所謂1ヵ月になりますが、もうそりゃ色々親子大変な修行でしたでしょうけれども、ほんとに迷いが起こる様な事で御座いましたろうと思います。
 10日かそん位の、1週間位の時だったでしょうか、もうとにかくあの体中に張ってあるご神米が乾いてくると、それが痛むわけです。それでそれを取らんなならん。もう全然食事がいけませんし、そのからそれに吐き気がくる。丁度そういう時でしたでしょうか、ある方がお見舞いに見えて、そのうその話を聞いてね。もう人間の体が半分以上例えばやけどしたら死ぬるそうですよ。しかも吐き気がきたらもう愈々だめだちゅ言うんです。その通りの症状じゃったんですよ。ね。
 「はあ神様一途、神様」で私は、とにかくね取次者として矢張り力がなからなければ人が助からん。商売するなら元手がいるように、ね、普通の人は災難ていう難儀と言うかも知れんけれども、ここにひとしお頂かせてもらう、(ひともと)で頂かして貰う様なもんだから、大事にしていかなきゃいけないと。そういうある日でした。どんこん全然その動かす事が出来ませんし、便所が出らないというので、その便所を取って貰う、お医者さんに取って貰う事のお届けに、ここに出て参りました。
 それで私は「あれのそんならそんなふうにお願いさして貰おう」と言うて2階に帰ったと思ったらすぐ、また今度は改まってお届けに出て参りました。ね。それから実はあのう医者に、いうならば尿やら大便やら取って貰う様にお願いをさして頂きましたけれども、実はどうしたら一番本当でしょうかという、お伺いに出てきました。それで「池田さんあんたがそれ言うなら、本当な事を教えるよ」というて、ね。
 「このままおしっこが出るように、大便が出るように、お願いをしたらいいんじゃ」と私は申しました。だから腹が決まった。おかげで大変急速度におかげを頂くようになり、丁度戎浦さんが、見舞いに行かれて「もう長年の看護婦生活をしておりますけれども、こんな大火傷は初めてだ」っちゅう言うて、もうびっくり仰天してました。それからあのいろ自分もいろんなこう、消毒をしたりご神米をもそしてから、そのうご神米とお神酒さんのもう威力にもう、ほんとに改めて驚いたと言う程に。
 まあおかげを頂いてきて、昨日などはおかげで、もう段々傷が小っさくなって、ご神米が取れるだけおかげを頂いて、あとはわずかばかりになっとるとお届けが御座いましたが、おかげで食欲も出てきて、まあおかげを頂いておるとこう言うのです。ね。ですからおかげを頂くと言う事ならば、そのまま医者に行ってもおかげを頂くでしょう。医者に行けば早いと言う事は絶対ないです(笑)。ね。
 けれども矢張り安心がいかんと、矢張り医者が薬だと言いますが、だからと言うてそれをお願いすりゃ私はなら薬も全然せんし、医者にも掛っちゃならん、飲んじゃならんといやその人の信心になるですから、ね、池田先生がそう言えば、医者に尿を取って貰う。医者に尿を取ってもらやもうそのまま、とてもそのいけずにびっくりしてから、もう早速入院と言う事になったでしょうね。そしてもう合楽の金光様っちゃ無茶なことする、というて、私の、いうならば非常識を、まっ宣伝するでしょうね。
 私はそれ非常識と思わん、超常識と思うて、お取次ぎさせて頂いておるんですから。ね。例えばこの一例を取ってもです、さあ医者だ薬だ、さああの人に頼まにゃならんと言う様な事は、神様の働きの場というものを、小ぃさくしてしまうわけでしょ。私はそういう意味でね、神様を小さくして、なくないものないがしろにしてしまっておるのが、今の教団の中には非常に濃厚になって来たと言う事です。
 まさしく神を社の中に押し込んでしまう様な働きですから、事ですから、ね、神様のいうならばまあ私どもから言や、不思議な不思議な働き。神様の側からご覧になれば当たり前の事。そが一念そが信念を持ってお縋りする限り、必ずおかげになる。ね。そういう意味でいうならば、神様をないがしろにし、又は神様を、ね、もういかにも、ね、神様の働きがないかの様な錯覚又はそう思うて、ね、病気をしたら医者じゃなからんなら、病気をすりゃ薬でなからにゃならん。
 そして祈れ薬れと言った様な事を盾にして、神様を狭めていく。そりゃ信心の段階です。ね、祈れ薬れで、ね、おかげを頂かして貰うという、所もあってもよいけれども、愈々神様を十二分に現そうと思うたら、ね、神様に必死にすがって、一切を神様にゆだね任せると言う所に、天地の親神様が生き生きとしてお働き下さる事が出来るのです。昨日は小倉の富永さんの所のご主人が亡くなられ、いわゆる先生ですね、富永先生が亡くなられまして、丁度昨日は丸50日になります。
 ですから50日祭でしたけれども、都合であちら仏教であちらがあのう病院葬でしたからね、あの仏教でありました。それで50日経って昨日はだからお祭りは、まあ(洗礼)のような感じと、それから合碑祭と合わせて50日祭といった、大変難しいお祭りでした。ご親戚の方も沢山、いっぱい見えられてから、もうそれこそ盛大にこっからも総代さん方が、高芝さんと久富さん、久富繁雄さんと参拝されました。
 もうほんとにあのう矢張り、告別式やら10日10日のお祭りやら、50日祭やらを、もう一緒に執り行われて、それ程しにやっぱ盛大にお祭りが出来ました。だから始め若先生が奉仕しよる間は忍び手、後は私が奉仕する(かどうかは)(笑)50日祭ですから、拍手を打ってというふうに思うたけども、やっぱり拍手は中々打てませんでしたね、皆さん。矢張り忍び手でした。富永さんが言っておられました。
 もうほんとに自分でも、信心の有り難さとかしみじみ、もうほんとにあのう涙一つこぼれなかったけれども、昨日はもう泣き腫らしておられました。目を。けれどもそれはね、もうそれこそ主人がこちらにお祭りをして頂いて、ね、嬉しかろうという喜びと悲しさと、嬉しいやら悲しいやら、のまあいうならば涙であったと思います。ね。御霊様のいろんなこんな、例えば宴会なら宴会に、二所から同じ時間に呼ばれておる様な事がありましょうが。それで先ずやっぱ顔を出さにゃいけませんもんね。
 どっちにでんそれでほ愈々まあ座り込んで飲めれるという、本当に心安い方にはを後にして、先に顔だけ出して次のその宴会場へ行く様にね、そういう意味のお知らせを頂きました。もう色んな都合義理やらあれもあるもんですから、ちょっとあちらには顔だけ出させて頂いてね、今日からこちらへ愈々腰を据えて、いうならこちらで合楽の御霊舎に納まらして頂く事を、お礼を申されると言った様な感じのお祭りでした。ね。
 そしてまあ色々御理解を頂きました中に、今あすこにお花が、皆さんには見えませんでしょうけれども、黄菊とそれからあのう、葵の花が交互にいっぱい咲いてあります。そしてそれこそひまわりのように、あの紫の何という花でしょうか、あれがいっぱいこう日の出の様な勢いであの勢いよく、パーっとこんなに高かぁく、いっぱい差してございます。ね。だからあの紫の花がそれこそ、あの壷いっぱいにこう花を差してあるのは、あれは合楽のごひれいだとこう申します。ね。
 合楽のいうならばごひれいの中に、今日の御霊様のいうならば50日祭が奉仕された。ね。そこで私はあのう葵の花が、丁度あの向日葵の小さい花の様な中でね、中が芯が大きくて。ね。あれはあの徳川からから、天皇陛下へまっ大政奉還があった時、にの自分に詠った歌ん中に「菊は栄える葵は枯れる」というね歌がございます。だから合楽の信心のいわばシンボルと言われる、あの菊の花が、いよいよ栄えて、葵は枯れるのである。葵というのは、いうならば青い顔をしておるというふうに、私は頂きました。
 そして私から見るとどうしても、あの葵の花は向日葵の様に見える。ね。今まで例えば、なら富永さんが何回もお礼に出て見えて、もうほんとにこんな、しかも咄嗟の事でしたから、大変な事でしたけれども、一時ははっと思うてもうそれこそ気も転倒せんばかりだったけれども「金光様、金光様」唱えておる内にです、もう神様のこの様にも間違いのない、寸分間違いのないお働きの中に起こっておる事として、心が安心ができてもうほんとに不思議な位に、悲しい涙が流れませんでした。
 はあ信心ちゃ有り難いなと、こうまあ言うておりましたけれども、ね、それはどちらかというならばです、ね、それが言わば最愛のご主人を亡くされるのが、悲しい事がないと言う事があろう筈がない。ただ信心(じゃ)ある意味でカバーをしておるだけなんだ。ほんとは蒼い顔をしておるんだ。しかしこの50日祭を境にです、その蒼い顔から愈々、葵はもうこれで枯れたんだ。
 そしてほんとの意味において、菊の花に変わっていく、いうならば向日葵が暑い方へ暑い方へとです、向きを変えて咲いて行く様に、ね、難儀困った悲しいと言う事へ、もうそれに本気取り組んで、おかげにしていくという信心が、これからなされなければいけませんね、と言う様な御理解でした。ね。私は今日は池田さんの事と、それからあのう富永さん所の、所謂50日のお祭りというものを聞いて頂いて、ね、神様をいかにして現すかと。ね。しかも十二分に現すかと。ね。
 金光様の信心はしよるけども、もう仏教で済まわせましたと。もう折角頂いておる天地の親神様を生き生きとです、現す事もでけたら、魂も御霊も助かる程しの縁を頂きながらです、ね、仏教で済ませましたから、と言った様な事では、天地の親神様を愈々もうこりゃもう、ないがしろにしてしまってるのと同じですから、ほんとの助かりはないです、御霊の助かりは。
 なら人間社会においてもそうです。ね。折角の金光様のご信心を頂いて、ね、縋るというなら任せるというなら、ほんとに縋って任せれれるおかげを頂かなければ、自分の我情が出る自分の思いが出る。ああなったらさぞよかろう、こうなったらさぞよかろう、と言う事を願うだけでは、十分の神様のお働きは頂かれません。先ずは自分の苦しいなら苦しい事をお取次を頂いて、ね、もう頂いたら最後それは神様にお任せして、あとは自分の思いを捨手きる所に、心がすっきりと晴れやかに成って参ります。ね。
 その心におかげが頂ける、その心に天地の親神様の働きを十分に頂き、そして現す事が出来るのです。ね。そういう意味で合楽の場合はです、ね、神様をないがしろにする事もなく、押し込める事もなく、もう十二分にいうならば働いて頂いて、いうならば南米の果てにまでも、神様合楽のごひれいが輝いておると言う事がです、ね、神様を十分にお働きの場は、もう私らが作らせて頂いたと言う事になるのです。
 それと反対の事になったらどうでしょう。さあ布教に出たら10年経ったっちゃ人が助からん、ね、と言った様な遅々たるという働きではなくて、神様の十二分のお働きを受けたら、それこそ凄まじいまでの働きが、そこに起こって来るんです。ね。しかもただなあ医者じゃ薬じゃ人間だというて、あれに頼りこれに頼りしとったら、ね、成程それでおかげは受けましょう。ね。
 けれどもおかげを受けただけではつまらん。ね、例えば池田さん親子に私が言っておるように、「これがあんた達が、愈々布教に出た時の元手だよ」と。いうならば力を受けると言う事。信じ神様を信じる力ができると言う事。どういう難儀な病人が走り込んで、「先生お願いします」「よしゃっ」と自分が体験を持っとるから、それを引き受けるようにお取次が出来るんだと。ね。
 ただおかげを頂いたというだけではいけません。ね。ならそのおかげを頂くと同時に、力と、ね、まあいうなら元手を頂かして貰う様な信心にならせて頂かなければならんと言う事です。ね。「神が社に入っては、この世が闇になる」。こういうみ教えがあるから、ね、奉祭様式をこういうふうに変えなければいけない、お扉を開けたら向こうには青空天井が見える様な奉祭がいいとか、ね。「お社の中に閉じ込めてしまうのは、金光教的ではない」とかと。
 天地の親神様が、ね。お社の中に入ったからというて、出て来なさらんごたる神様じゃない事実をね、私共はもっともっと神様を信じて疑わない、その信念が十二分に神様をお働きを頂けような場を、いうなら神様に自由自在な働きをして頂けれるおかげを頂かなきゃならん。と反対の事になったら、愈々神様を社の中に閉じ込める様な結果になってしまうと、私は思います。ね。
 今の教まあ教団には、そういう傾向が非常に強くなりました。いうならば非常に常識的になったと言う事です。ね、なって行きつつあると言う事です。常識的になったらもう信心のあるもんもない者も同じと言う事になります。ね。それを信心のない者から見たら、それこそ非常識。例えばあの池田親子の、あの模様をです途中で、もしんなら識者の人が見たら、ね、医学に心得のある人達が見たら。
 医学の本を見てから、ほんとにこういう状態は、もう死に繋がるんだと言った様な事を見たら、慌て驚いて「さあ医者だ薬だ」とあただに言うでしょう。ね。医者が出来なさる事が、神様に出来上がらん筈がない。ね。そこを頂きぬいた時に、それが非常識に見えるかも知れんけれども、超常識であると言う事が分かります。だから超がつくような広大なおかげ、いうなら広大無辺という、天地の親神様の働きを十二分に頂かして頂くために、そう言う様々な問題を通してです、ね。
 おかげを頂いて自分の力にしていかなければならんと言う事で御座います。ね。「神が社に入ってはこの世が闇になる」。ね。いうならば神様の働きを十、十二分に現しきらずに、それをただ人知人力だけに縋るとするならばです、ね、愈々この世は闇に成って行くでしょう。それこそね、寒天危地の世の中になってしまうでしょう。ね。この世は闇の世になってしまうでしょう。そこにかすかにでもです、ね、この闇の世を光にしていこうという働きを今合楽では、ね、和賀心を時代を世界に例えば創ると。
 合楽理念といういうならば、助かりの理念を引っさげて、南米に例えば行く時に末永先生にね、「もう合楽理念のいうならば確立を頂いて、あんたが南米に出ると言う事は、もう大変な事だ。それこそ神馬にまたがって、蹴散らして行く勢いでおかげ頂け」と申しました通りの事が、南米で起こっておる。ね。いうならその助かりの理念というものを、愈々ほんに発揮していけれる様な信心を頂きたいですね。
   どうぞ。